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古家 正亨のK-Musicアーカイブス

Vol.02 グ・テフン(구태훈)(紫雨林)・SOUNDHOLIC代表

ラジオDJ/テレビVJ/韓国大衆文化ジャーナリスト
上智大学大学院文学研究科新聞学専攻博士前期課程修了。
98年〜99年韓国留学。帰国後00年に日本初のK-POP専門番組
「Beats-Of-Korea」(FMノースウェーブ)を立ち上げる。
04年〜韓国MTVで日本人としては初となるVJとしてJ-POP番組
「MTV J-BEAT」の進行を担当。
現在、テレビ・ラジオ併せて10本のレギュラーを持ち、日本にK-POPの真の魅力を伝えようと努力している。
韓国観光名誉広報大使、韓国食と農産物広報大使、
2009年には韓国政府よりK-POP普及に貢献したとして、文化体育観光部長官褒章を受章。

http://furuco.petit.cc/
昨年、韓国音楽界の大きな影響を与え、90年代の人気歌手のリバイバルヒットブームを生み出したMBCテレビのバラエティ番組『サバイバル 私は歌手だ(通称 ナカス)』。
そのナカスに、あの韓国の伝説のロックバンド紫雨林(ジャウリム)が出演していたのである。97年にデビュー以降、時に反社会的メッセージを込めたその歌詞と、紅一点ヴォーカルで自らソングライティングも手掛けるキム・ユナの存在感、そして、確かな演奏力が相まって、静かで長い人気を得てきたバンドである。
しかし、彼らはマスコミを批判し、韓国の音楽産業構造をも批判するなど、アウトサイダー的な面も強かった。しかし、その音楽性は日本の音楽関係者からも高い評価を得て、2001年、K-POPという言葉すら存在しなかった日本に上陸し、日本に滞在しながら日本でのプロモーション活動に力を注いだ。決して大きな結果を得ることはできなかったが、こうした先駆的活動は、彼らにとっても大きな財産となり、その後アルバムのミキシングやマスタリングは日本のエンジニアを使うなど、日本との交流は続いている。
そんな紫雨林が、マスコミと距離を置いていたはずなのに、なぜかナカスに出演し、話題を集めていたのだから、放っておくわけにはいかない。さらに、ドラムのグ・テフン氏が立ち上げた、韓国を代表するライヴクラブ「SOUNDHOLIC」が、インディーレーベルとして、新しいビジネスを始めたという話を耳にし、いったいこれから紫雨林はどこに向かうのか? そして、すでに後輩の育成に入っているのか? など、10年来の知り合いでもあるその当事者、紫雨林のドラム、グ・テフン氏にソウルで話を訊くことができた。

― 日本に住んでいらっしゃった時がいつでしたっけ?

テフン:正直、記憶がはっきりしないのですが(笑)。約10年前ですよね。2001年、2002年・・・。この時期に、日本でライヴ、やりましたよ。

― その時代のことを考えると、今の日本における韓国の音楽を取り巻く環境も、随分変わりました。

テフン:まずは、その環境に感謝しなくてはなりませんよね。韓国のアイドル達が日本で受け入れられていることに感謝しなくては・・・。どうしてここまで受け入れられるようになったのか、僕も知りたいぐらいなんです。日本をはじめ、今世界各国で、こうして韓国のアイドル音楽、つまりK-POPが受け入れられているわけですから、それ以外の韓国の音楽に対する期待も高まっていることを、自分でも感じます。そして、良い音楽を届ける機会が、アイドル達の活躍同様に、これから出てくるかどうか、興味深いですね。

― 紫雨林が日本に進出した時は、はっきり言って日本では韓国の音楽に関心を持っている人はほとんどいませんでした。紹介してきた立場の人間として、どんなにその魅力を紹介しても、受け入れてもらえない雰囲気がありました。そういった状況の中で、紫雨林が日本進出を果たし、どんな結果を得ることが出来たのか・・・。テフンさんは、どう評価しますか?

テフン:日本に進出したからといって、音楽性が大きく変わったとか、日本語で歌わなくてはならなかったとか、そういったものは一切なかったので、韓国での活動と、何ら大きな変化があったわけではありませんでした。ただ、僕らが進出した10年前、韓国と日本を比較した時、特にロックシーン、バンドシーンは、日本の方が遙かに発展していました。バンドマン達が活躍する環境も非常に整っていましたし。ですから、そういった部分に関しては、日本から学んだことは本当にたくさんありましたね。それから、自分たちの音楽を、大きく変えることなく“そのまま”で受け入れて、そして、プロモーションしてくださった、当時の日本のレコード会社関係者の方には、今も心から感謝しています。

― 韓国の音楽界は、どうしてもアイドル達が市場の中心となり、バンドやソロの歌手が活動しても大きな成果が得られない状況が長く続きましたよね。そういった状況の中、紫雨林が直面した難しい状況とは、一体何でしたか?

テフン:今でこそ、韓国も様々な音楽が受け入れられるようになりました。音楽の多様化が進んでいます。アイドルといっても、いろんな音楽を奏でていますよね。でも、10年前までは、“アイドル以外は音楽じゃない”という環境でした。

― テレビの音楽番組もアイドル以外ほとんど出演できませんでしたよね。

テフン:そう。10組出演したとしたら、ま、多くて1組でしょう。その中でバンドが出演できるとしたら。そして、2組ぐらいが・・・ソロの歌手。それ以外はアイドルという感じでした。でも仕方ないと思うんですよね。10年前と言えば、音楽の聴き方がCDからMP3へと変化していく時期でした。バンドやソロの歌手、シンガーソングライター達は、CDアルバムという自らの“作品”を発表するという形式で活動していましたが、アイドル達は、デジタルシングルという形で矢継ぎ早に作品を発表し、飽きさせないようにしていましたから、より簡単なプロモーションスタイルと選択しようとした結果、音楽市場がデジタルに傾いていき、結果アイドルの時代が到来。バンドや歌手達が自分たちの世界にこだわった結果、市場の動きをキャッチアップ出来なかったことも、アイドル時代の到来の背景にあると思うんです。

― ただ、2009年辺りからでしょうか。韓国のインディーズシーンの中心地であるホンデ(弘大)周辺の雰囲気が随分と変わり始めましたね。それまではアイドルに圧され、アンダーグラウンド的イメージの強かったインディーズがオシャレのアイテムとして認められるようになってきたというか・・・。ホンデという街そのものも随分オシャレになっていきました。

テフン:そもそもホンデには、ミュージシャン、画家、アーティスト、言論家など、こういった文化活動する人々がたくさんいたんですね。こういった人たちが、自分達の遊び場として、クラブやカフェ、美味しい食べ物が食べられるお店、ちょっと変わったカルチャー体験の出来る場所など、新しい文化を生み出してきました。ですから、若者達の間で、ホンデは他の地域と違って、珍しくて面白いものがあるという認識につながっていったんです。ですから、こういった遊び場の1つとしてその人気が定着していた“クラブ文化”が特に発展していきました。残念ながら、バンドの演奏を聴きたくて多くの人がホンデに向かったのではなく、ダンスクラブで踊りたかったんですね。で、想像できると思いますが、こうして流行の発信地、新しい文化の発信地として注目されれば、当然多くの人が訪れるようになって・・・そう、土地の値段が上がります(笑)。結局、この街は、ビジネスとして、商売する街へと変貌しようとしています。ホンデに来る人々の目的が、文化を楽しむというものから、消費するために訪れるという感じで変わっていっているように感じます。その結果、アーティスト達は、今ホンデをどんどん離れて行っている状況なんです。文來洞(ムンレドン)とか合井(ハプチョン)のような、静かな場所に向かっているようです。

― そんなホンデに、今やインディーズの殿堂的存在として知られている、ライヴハウス「SOUNDHOLIC」を個人で設立されましたよね。

テフン:韓国にも良いアーティスト、良いバンドがたくさんいるんだから、そういったアーティストとちょっと面白いことをしてみたい・・・という動機から、ライブハウスという1つの形態を思いついて作ったんです。そして、そんなアーティスト達をサポートするスタッフを育てたい!という想いがあったんです。ですから、このSOUNDHOLICという会社は、最初はスタッフを、そして次にライヴクラブを、そしてライヴ企画、さらにインディーレーベルとしてその歴史を歩んでいます。現在レーベルとしていろんなジャンルのインディーアーティストを11組、抱えています。

― 紫雨林も今、SOUNDHOLIC所属なんですよね?

テフン:はい、そうです。

― その紫雨林ですが、かつてはマスコミに対して結構刺激的な発言が多かったですよね。要は、ちゃんと音楽をやっている人々を評価しない風潮はどうなんだ・・・と。でも、去年、まさに社会現象を巻き起こしたMBCテレビの『サバイバル 私は歌手だ』に出演して、高い評価を得ました。あれだけマスコミを批判していたのにもかかわらず、あれだけ大衆的な番組に出るなんて、昔から紫雨林を知っている人であれば、かなりびっくり仰天な話だったわけですが、一体どんな心境の変化があったんですか?

テフン:僕がメンバーにやろうって言ったんですよ(笑)。最初この番組は、競争を煽るような番組だと思ったんですね。でも、実際に話を訊いたりしてみると、バラエティ番組だったんです。当然音楽番組でもないわけで・・・。つまり、バラエティ番組のゲームコーナーのような感じと言えばいいでしょうか。そういった事を自分たちも理解して、そして、他の出演者の皆さんも、素晴らしい才能の持ち主ですし、こういった環境の中で自分たちもその雰囲気を楽しめるということで、出演を決めたんです。

― 他の参加されている皆さんはソロの歌手ですが、バンドで参加というのも紫雨林の面白さですよね。

テフン:僕らはそもそも好奇心が旺盛なんですね。やってみたいことがたくさんあります。ですから、この番組への参加は、本当に面白かったですし、良い経験になりましたね。

― 『サバイバル 私は歌手だ』に出演して、何か大きな変化はありましたか?

テフン:紫雨林そのものに何か変化があったわけではありません。でも、外的な変化は大きかったですね。僕らを知る人、僕らに興味を持ってくれる人が当然増えました。僕らは、これまでと何ら変わらない音楽をやってみただけなんですが、やっぱり僕らのことを知らなかったんですよ、多くの人が。かつては紫雨林=キム・ユナ(ヴォーカル)というイメージが定着していたようで、この番組をきっかけにバンドであることを認識してもらえたようです。そして、真剣に音楽をやっているバンドであるということを知ってもらえたということは、僕らにとって何よりも大きな財産になりました。10代の子供たちが、紫雨林のことを好きと言ってくれるようになって・・・うれしいですね(笑)。ですから、これからの自分たちに対する“勇気”を与えてくれた番組と言えばいいですかねぇ。

― そして、タイミングよくニュー・アルバム『陰謀論』を発表・・・と(笑)。

テフン:は〜い(笑)。

― 聴きごたえありましたよ、すごく。

テフン:そうでしょ? どの曲が気に入りましたか? 「アイドル」?

― 「EV1(※)」です。

テフン:いいでしょ?「EV1」。

― これは紫雨林にしかできない音楽だと思いました。

テフン:この曲はいい曲です(笑)。

― どうですか? そろそろ日本でもう一度ライヴをやってみるっていうのは?

テフン:呼んでくれるなら、すぐ行きますよ。古家さん、呼んでくれるでしょ? 日本では、たくさんの良い記憶がありますから、そんな日本でライヴ、行きたいですね。

― 紫雨林がかつて出演してくれた僕の番組(※)、まだやってますよ! 10年も。

テフン:まだやってるの?すごいねぇ。じゃ、次の日本でのライヴは、 古家さんのその番組の記念ライヴかな。ユナのまだまだ日本語イケますよ!

― (ギャラ)高いですよね?

テフン:・・・高いですよ(笑)。

― 『サバイバル 私は歌手だ』の力ってすごいなぁ・・・。

テフン:古家さんなら、用意できるでしょ(笑)。

― 頑張ります・・・。


※「EV1」アメリカのGMがかつて作った世界初の電気自動車。世界に先駆けて作ったものの、あらゆる力関係からコモディティ化されなかった幻の自動車。まさに先を読んでいた自動車と言えるが、結局人間の自己欲によってこういった可能性も否定されることをキム・ユナはこの曲で歌い上げている。

※「Beats-Of-Korea」札幌のFMノースウェーブで2001年から毎週土曜日22時から放送している日本初のK-POP専門番組。現在もOA中。この番組の2002年に行われた公開収録に紫雨林が出演。

グ・テフン

1972年12月18日生
1997年ロックバンド「紫雨林(자우림)(メンバーはイ・ソンギュ<リーダー/ギター>、 キム・ジンマン<ベース>、キム・ユナ<ヴォーカル>の4人)」のドラムとしてデビュー。
2001年日本デビュー。
これまで8枚のアルバムを発表。
グ・テフン氏が代表を務める(株)SOUNDHOLICのオフィシャルホームページ
http://www.soundholicrecords.com/
紫雨林(자우림)オフィシャルホームページ
http://www.jaurim.com/jaurim/
©2012 avex