BEHIND THE SCENEVOL.6|2021.03.19 update
坂本龍一の一年の活動をまとめるコンプリートボックス『2020S』。音楽作品として、そしてアート作品として超越したものを目指し、“日本文化を象徴するもの”というコンセプトのもと制作が進められてきたが、いよいよ制作は全工程を終了し、あとは発売を待つのみとなった。
これまでの「BEHIND THE SCENE」では、外装や「陶片のオブジェ」などの制作過程をインタビューとともに『2020S』の魅力を紐解いてきたが、何よりも忘れてはならない今作の魅力といえば、坂本龍一の音楽そのものにある。
『2020S』には、2020年に坂本が制作・発表した楽曲に加え、今作のテーマの一つである“記憶の断片”をもとに書き下ろした新曲が収録される。新曲には、坂本の念願であった“陶器を割る音”を使用する。計7枚のアナログレコードで綴るのは、坂本龍一の一年の記憶であり、“音楽の自然回帰”である。今回は“コンプリートアートボックス”という原点へ回帰し、坂本の2020年の音楽について、そして陶器を割る音を使用した新曲「fragments, time」について触れてみたいと思う。
音楽家・坂本龍一の妙
前年度のコンプリートアートボックス『Ryuichi Sakamoto 2019』では映画のサウンドトラックを中心に構成されていたが、『2020S』ではジャンルレスなコラボレーション楽曲が集う。蔡明亮監督作品『あなたの顔(英題:Your Face)』、コゴナダ監督作品『After Yang』のオフィシャルサウンドトラックにはじまり、イタリア発の高級ラグジュアリーブランド、ボッテガ・ヴェネタのショートフィルム用に書き下ろされた「BV」や米シアトルのNPO法人MOR(Music of Remembrance)のために制作された「Passage」、さらにはテレビ東京のミニドラマ『きょうの猫村さん』の主題歌となった「猫村さんのうた」など、そのラインナップを見るだけで坂本の多岐に渡る音楽活動が伺えるだろう。
中でも現代アーティスト・李禹煥の個展のために制作された『S/N for Lee Ufan v.2』は、ピアノの線を弾く音から電子的なフィードバックノイズ、銅鑼の唸り、金属片やガラス、石などを用いた表現など、坂本らしさを感じる独特な手法がふんだんに詰まった楽曲となっている。一方で、無印良品のCM音楽として制作された「MUJI2020」は、ピアノひとつで心温まる2分間を紡ぎ、心地良くも一度聴いたら忘れられない印象強さを残す。ピアニストとして、そしてメロディーメイカーとしての妙を感じさせる一曲だ。
坂本が目の前で演奏をしているような
「fragments, time」
“陶器を割る音を使って音楽を作りたい”
『async』のリリース以降、坂本の中で強く思い描いていたアイデアが『2020S』でついに実現される。楽曲で使用するのは、坂本自身が絵付けを行い、唐津の陶芸家・岡晋吾が焼き上げた陶器の皿だ。坂本は10月末にNYの自宅にて陶器を割る音を採取し、制作期間へ移行。12月初旬には「fragments, time」という曲名ともに完成した楽曲が届いた。
楽曲から聴こえるのは陶器とピアノの音のみ。静寂の中で陶器は不規則に鳴り響き、その隙間を埋めるようにピアノが丁寧に紡がれてゆく。一音一音が情緒的で、記憶の片隅にあるような懐かしい風景やにおいがふと蘇ってくるようだ。シンプルな素材である分、すべての音色がダイレクトかつ立体的に耳に届き、耳を澄ますと坂本の不意のひと息まで聴こえてくるなど、まるで坂本が目の前で演奏しているような身近さが感じられる。
人力では再現できない
陶器の繊細な揺らぎや余韻を味わう
“陶器が割れる音”と聞くと耳当たりの強い衝撃音を想像するが、実際に楽曲から聞こえてくるのは耳をつんざくものではなく、どこか透明感のある柔らかな響きである。陶器の断片は転がるたびに一つずつ異なる余韻を残し、坂本がこの楽曲に使用するために作ったという「簡易な楽器」は、複数枚の陶器がランダムに触れ合い自由な音色を奏で合う。
陶器同士が触れ合う面積や角度、回数が異なるたび、人力では再現できない陶器の繊細な揺らぎや余韻が生まれる。一つとして全く同じ記憶というものが存在しないように、5分間の中に一度も同じ瞬間が訪れない音楽を導き出したのだ。また、楽曲には静寂とともに聴く時の環境や気分を反映する余白がある。曲を聴くタイミングごとに新しい記憶が生まれるのもまた、この曲の一興なのかもしれない。
概念や制限を超え、音楽の原点へ回帰する
新曲用に作られた7inch盤には、「fragments, time」からピアノのメロディだけを抜いた「fragments, time-debris」という楽曲も合わせて収録されている。より静寂さが増し、一つひとつの所作がより鮮明に聴こえる。さらには同音連打するピアノの存在感が強くなり、陶器の音色がより立体的な印象になるなど、同じ楽曲であるにもかかわらず、楽曲の全体的な雰囲気が変わるのが魅力だ。
何より「fragments, time-debris」をリピートすると、始まりと終わりに境目がなくなって聴こえるのも面白い。聴き続けているうちに5分5秒という時間制限がなくなり、永遠に音楽が鳴り続けているような感覚が生まれてくるのだ。そこにはいつの間にか音楽に根付いてしまった規則的なものや“時間”という概念はない。まるで音楽の原点へ回帰するように。
坂本の記憶の扉を開く『2020S』
音楽は非科学的かつ非同期的なものである。そう体現するように、坂本は“音楽の自然回帰”を追求し、自然のエネルギーに同化する音楽スタイルを築いてきたように思う。思考に左右されず、“あるがまま”を愛するということだ。その大きなきっかけとして、2011年の東日本大震災で津波に流れて壊れたピアノに出会ったことが挙げられるが、10代の頃から抱いていた「聴いたことがない音を聴いてみたい」という探求心も影響しているだろうし、さらには音楽の自由を追求し続けたクラシック音楽家、クロード・ドビュッシーの精神性を幼少期から自然と受け継いでいたのかもしれない。
奇しくも“自然回帰”は『2020S』の主要テーマの一つ。今作は、木箱や陶芸、布地から見る日本文化の魅力を通じて、これからの人間の生き方を問いかけるとともに、楽曲たちを通じて音楽の自然な在り方を問うものとしても意味を成すものとなるだろう。また、何より「fragments, time」というひとつの音楽がこの世に生まれた過程の記憶が、「陶片のオブジェ」に宿っている。楽器の一部を所有していることで、より立体的に見えてくるものもあるだろう。
これらの楽曲はアナログレコードに収録され、新曲が収録される7inch盤のみ箱上部に、その他12inch盤は引き出しのような構造となっている木箱内部に一段ずつ収納される。購入者は箱を開け、きっちりと収められた盤や「陶片のオブジェ」、冊子などを一つひとつ引き出していくことになる。それは、坂本の記憶の扉を開く感覚にも近い。坂本の記憶を辿りながら2020年の活動を振り返りつつ、それぞれの記憶、それぞれの想いとともに、さまざまな角度から坂本龍一の音楽を楽しんでみてほしい。
文=宮谷行美