BEHIND THE SCENEVOL.3|2020.12.11 update
2020年9月24日、NYにて。
8月末に佐賀県は天平窯にて焼き上げられた素焼きの皿を無事受け取った坂本は、自宅の庭先で絵付けを行った。
本来ならば、9月頃に来日し、陶芸家・岡晋吾のもとで絵付けをする予定だったが、未だ終息の兆しを見せないコロナ禍の影響により来日は中止。現在坂本が住むNYの自宅で絵付けを行うこととなった。今回、絵付けを終えたばかりの坂本にメールインタビューを敢行し、絵付け直後の率直な感想を尋ねた。
初めての絵付けは
「自分でもなかなかと思うものが描けた」
庭先で静かに佇むピアノの前にテーブルをセッティングし、呉須に筆、岡から受け取った素焼きのお皿を並べる。陶器への絵付けは今回が初めてだという坂本。“意外”にも上手くいったそうだ。
「ぼくは小さい頃より“絵心”がなくて、絵がとても下手だった。ですから、この絵付けも全く自信がありませんでした。しかし実際にやってみると、思いのほか楽しくて。なかには自分でもなかなかだと思えるものが描けました」
絵付けをする坂本の姿は、楽しみながらも、一枚一枚の皿を目の前に、自分の感性をもって対話をしているようだった。思考のちらつきを防ぐべく、テーブルの上には描くために必要なものだけを最小限に配置する。真っ白な心で、本能のあるがまま絵付けを進めていく。
「始めは試行錯誤でした。数枚描いたあとに、呉須を薄くしてみると、筆の複雑な文様が現れてきて、そこから大変面白くなりました。筆の軌跡というか、そこから生まれる文様なものと“戯れた”という感じがしますね」
一枚一枚の絵にゆらめく命の灯
絵付けされたお皿には、「山」や「月」など、漢字を描いたような作品も多く見られた。綿密なデザイニングではなく、書道家の作品に見られるような、衝動性と力強さを感じる作品ばかりだ。坂本は描く途中何を思い浮かべていたのだろうか?そう問うと、「何も考えてはいない」と言い切る。
「というよりも、なるべく何も考えずに描くように努めました。当初はなるべく具体的なイメージは持たず、抽象的な線、あるいは楽譜のようなものを描こうと思っていましたが、実際に筆を執ってみると、自分でも意外なほど漢字のような形が出てきました」
「すべては意図して生まれたものではない」と語る坂本の絵には、命の灯がゆらめく。実際に絵付けをする際は、歯をぎりっと食いしばりながら全力をかけて筆を押し付け描くこともあれば、なめらかな筆使いとゆるやかな曲線で、彼の繊細さを表現したような絵が出来上がることもあった。一枚一枚の皿には坂本の中の静と動が描かれ、“坂本龍一”という一人の人間から生み出される生命の力が宿るのだ。
絵付けをした皿は、本焼き後再びNYに戻され、坂本自身の手で割ることになる。坂本は「割ることを前提に描いていたのだから、特に何も思ってません」と言いつつ、最後に「多少もったいない気もするけど」と添えた。割られた後の絵が持つ表情も、今作の見どころの1つとなるだろう。
ゴールがわかっているものを作るほど、
つまらないものはない
無から有を生み出す作業は、非常に力を要することだ。これまで見た景色、感じたもの、すべてを咀嚼して行きついたもの。これまでの自分のすべてと対話し、新しいものを生み出す作業である。そう考えれば、絵付けは音楽制作と親和性が高い行為といえるのではないだろうか。
「事前に青写真のような仕上がりのイメージを持たず、まるで子どもが砂遊びをしていて、自分でも何を作ろうとしているのか分からないまま遊んでいるうちに、だんだんと形になっていく…という制作の仕方が理想です。これは僕にとって、音楽、絵、文章、対話、すべてに言えることです。やる前からゴールが分かっているものを作るほど、つまらないものはない」
絵付けを終えた今、次に待つのが音楽制作だ。陶器の割れ方次第で採取できる音が変われば、出来上がる音楽も異なる。陶器が地面に落ちる時の空間を切る音、割れる瞬間のインパクト、音が消えてゆくまでの過程。その一つ一つに一秒でも長短の変化があれば、すべての構想が変わるのだ。
陶器を自分の手で割るまでは、坂本の中に音楽は鳴らない。「ゴールは持たないのが良い」その指針のもと、偶然の産物に思いを馳せ、坂本は純真な心を抱いている。まるで、砂遊びをただ楽しむ子どものように。
2020年10月25日。再びNYにて。
9月末に絵付けをした陶器のお皿が、佐賀県より再びNYに戻ってきた。いよいよ楽曲制作のための音を採取する工程へ進むことになる。
この日の坂本は、午前より『2020S』の制作に向けて活動しており、午後から陶器を割る準備に入った。
坂本は前回絵付けを行った場所でもある中庭にて、陶器の皿を一枚一枚落としてゆく。無心のまま、割れた音へ耳を傾けた。陶器は非常に丈夫な作りで、割れる音は辺り一体にまで響き渡っていたそうだ。
「お皿は予想していたよりもはるかに大きく、がっしりした音がするので、隣近所から怒鳴られるのではないかとビクビクしながら割りました。お皿自体も固くしっかりとしていて、かなりの高さから尖ったものに落とさないと、なかなか割れなかったです。NYへ二往復もすることを考えて、かなりしっかり作ってくださったんだと思いました」
陶器の皿を制作した陶芸家・岡晋吾も、「輸送することを考えて厚みを調整した」と先日のインタビューで答えていた。実際に、NYに届いた皿はほとんど欠けておらず、絵付けをした時と同じ形状のままだった。ずっしりとした皿は、バリンと大きな音を立てて次々と割れてゆく。
「何十枚と続けて割り続けていたところ、とうとう周りの家から“ヤメロ!”というような怒声が上がったので、庭で割るのを中止して、スタジオ内に移動しました」
室内へ移動した坂本は、床一面にビニールシートを広げ、再びお皿を一枚ずつ落とし始めた。室内に留まるダイレクトな破壊音に身体をこわばらせるも、しばらくするとスムーズな手つきで割るようになった。皿は一枚、また一枚と地面に落ちるたびに、耳から脳を一直線に突き刺すような甲高い音を鳴らす。
「お皿が割れる音はとても大きく、暴力的な音がして、ぼくは“怖い”と感じました」
しばらくして、坂本はトンカチやペンチを用いて皿を割り始めると、うんうんと頷いた。力が加わることで音に密度が増し、陶器ならではの艶のある音が顔を覗かせる。破片たちが重なり合う上に、また新しい陶片が落ちるたび、陶片同士が触れ合い、繊細な音色を響かせた。
「割れた破片はとても良い音がするので、ART BOXに梱包する分を除いて、音楽用にいくつか取り分けておきました。アシスタントのアレックに頼んで穴を開けてもらい、簡易な楽器も作ってみたのですが、やはり良い音がします」
坂本が『2020S』に寄せたコメントには、「壊すことから始まる」という一文があった。陶器の皿を破壊することで新しい音楽が生まれるとすれば、まさにこの一文を表現した作品が生まれるのではないだろうか。期待の意を込めて尋ねてみたが、坂本が理想とする「壊すことから始まる」には、まだまだ及ばないとのことだ。
「“壊すこと”を音楽だとすれば、土や焼き方など、そもそもの陶器づくりから始めないとだめかな。それはすでに分かっていたことで、自分の理想の音のする土を求めて世界中を歩いて回れれば…などと夢想していたこともあります。いつか実現するだろうか…」
坂本の音楽への探求は、終わりのない旅のようなものである。人が無意識にイメージを固めた“音楽”という枠から離れ、坂本は道なき道を歩み続ける。世の中にさまざまな音が存在する限り、導き出される答えの数も無限大だ。そこに正解もなければ、不正解もない。
「ぼくの音楽は、テーマはないことがほとんどです。音を発見したり、音自体を遊ぶという風に作っている。作りたい音を作家の意思でがんじがらめにするようなことは、もうやめたい」
これから陶片は再び日本へ送られ、「陶片のオブジェ」として、アナログ盤とともに木箱に同封される。この陶器の欠片は、これから坂本が生み出す音楽の一部となり、“ひとつの新しい音楽が生まれた”という記憶の象徴となる。そして、2020年という特殊な環境下に生きる坂本の記憶の象徴でもあり、我々は陶器の欠片を経由して、その記憶を共有することができる。「陶片のオブジェ」は、同じ2020年を生きる人々を繋ぐ記憶の欠片となるのだ。
文=宮谷行美